INICIAR SESIÓN泣き止むと、征臣の上着に残った濡れた跡が目に入った。
離れてから急に恥ずかしくなり、視線を廊下の床へ落とす。彼は上着を見ないふりをしていた。「さっきの」 征臣が言う。「聞き間違いじゃないですよ」「分かっている。……嬉しくて、何を言えばいいか」「なら」 続きを促すと、彼は一度だけ口を閉じた。「俺も、君が好きだ」 目を逸らさずに言われて、胸の奥が遅れて熱くなった。「いつから……そうだったんですか」「いつからかは、俺にも分からない」「そこは、あなたにも分からないんですね」「気づいた時には、契約を終わらせる方が嫌だった」 征臣は壁へ背を預けた。「それで、これからのことは――」「待って。好きって言われたばかりなのに、もう次の話ですか」 征臣の目が止まった。 自分でも少し可笑しくなり、濡れた袖口を指でつまんだ。泣き止むと、征臣の上着に残った濡れた跡が目に入った。 離れてから急に恥ずかしくなり、視線を廊下の床へ落とす。彼は上着を見ないふりをしていた。「さっきの」 征臣が言う。「聞き間違いじゃないですよ」「分かっている。……嬉しくて、何を言えばいいか」「なら」 続きを促すと、彼は一度だけ口を閉じた。「俺も、君が好きだ」 目を逸らさずに言われて、胸の奥が遅れて熱くなった。「いつから……そうだったんですか」「いつからかは、俺にも分からない」「そこは、あなたにも分からないんですね」「気づいた時には、契約を終わらせる方が嫌だった」 征臣は壁へ背を預けた。「それで、これからのことは――」「待って。好きって言われたばかりなのに、もう次の話ですか」 征臣の目が止まった。 自分でも少し可笑しくなり、濡れた袖口を指でつまんだ。「私は、明日も会いたいです。朝、起きたら最初に」 征臣の眉間から、皺が消えた。「俺も、朝いちばんに君の顔が見たい」 濡れた袖口を離す代わりに、私は彼の指へ触れた。 好きだと分かっただけで、手を伸ばすのがこんなに難しくなるとは思わなかった。征臣も私の指を見ていたが、やがて、ゆっくり繋いでくれた。「顔、赤くなってるぞ」「言わなくていいです」 彼が笑った。いつもの、口元だけの笑いではなかった。 それを見て、また好きだと言いたくなった。 会議室から彩花さんが顔を出す。「警察の確認が終わりました」 私たちは同時に一歩離れた。 会議室のガラスには、離れた二人の影が並んで映っていた。肩は触れていないのに、さっきより近く見えた。 会議室へ入る手前で、繋いだ手を離した。彼の指が名残惜しそうに動き、私もすぐには扉へ手を伸ばせなかった。 互いに好きだと分かったあとも、警察から追加の連絡は来る。母の資料は整理しなければならず、征臣は深夜まで会議
映像には、研究棟の地下通路が映っていた。 母はストレッチャーで運ばれ、神谷の名札をつけた男が何度も後ろを振り返る。紗英が追い、宗一郎の秘書はカメラを止めるよう手を振っていた。 音声は途切れている。 〈呼吸が弱くなっています〉 〈病院へ運べ〉 〈このままでは記録が――〉 誰の声か判別できない。 最後に、神谷がカメラへ近づいた。青いファイルを掲げ、中から一枚抜いて白衣の内側へ入れる。「持ち出した」 蓮の声が低い。 隠すためか、外へ持ち出すためか。映像だけではまだ決められない。それでも、神谷が母のそばにいた事実は動かなかった。 再生が終わる。 椅子から立とうとして、膝が動かなかった。 母が運ばれるところを、今度は動く映像で見た。停止した写真より、白い手が揺れていることの方が苦しかった。 誰かに名前を呼ばれた気がする。 会議室を出て、廊下の壁へ手をついた。息は吸えるのに、胸の途中から下へ落ちていかない。 足音が後ろで止まる。「澪」 征臣は触れなかった。 振り向くと、彼の上着の前が開いたままだった。私はそこを掴んだ。引き寄せるつもりだったのか、倒れないためだったのか、自分でも分からない。 征臣の腕が一度、宙で止まる。「……抱いてください」 声が掠れ、最後の音と一緒に涙が落ちた。 背中へ腕が回る。強く締めず、私が離れられる隙間を残していた。 額を胸へ押しつけると、心臓の音が聞こえる。映像の中では母の身体が運ばれ続けている。こちらでは、征臣のシャツを握る指に、無意識に力が入っていた。「離れないで」 自分で言った声が、子どものようだった。 腕の力が、わずかに変わる。「いる」 それだけだった。 母へ腹が立った。どうして一人で行ったのか。なぜ私へ言わなかったのか。会いたいと思うのに、会えたら先に怒ってしまいそうだった。「母に、怒っています」 征臣の胸元へ声が沈む。
三一一のテープを再生する前に、警察の立会いが必要になった。 深夜の会議室で待つ間、征臣は一人で窓際に立っていた。 私は紙コップの水を二つ持っていく。「紗英さんとの話、ほとんど聞こえていた」 征臣が先に言った。私は渡しかけた紙コップを握り直した。 水を渡すと、彼は受け取ったまま飲まない。「私が離れれば、あなたも止まると思われていました」「止まらない」「そうでしょうね」 少し笑うと、征臣は不満そうに眉を寄せた。「笑うところか」「……あなたらしいなって。少し、安心しただけです」 彼は紙コップの縁を見た。「君が離れたら、調査は続ける。だが、同じではない」「何が違うんですか」「全部だ」 乱暴な答えだった。 正しく説明しようとして、言葉を整えすぎる彼より、今の方が近く感じる。「食堂の前で、何を言うつもりだったんですか」 聞くと、返事までに間があった。 廊下を警察官が通り、扉の向こうで機器を運ぶ音がする。「君が好きだと言うつもりだった」 声は小さくなかった。 それでも、周囲の音に紛れて、私だけへ届いた。 胸が大きく鳴る。「過去形ですか」「今も同じだ」 私は紙コップを両手で持った。冷たい水の感触がないと、何かを落としそうだった。「私も」 そこまで言った時、会議室の扉が開く。 再生準備ができたと呼ばれた。 征臣は続きを待った。「あとで聞く」 今度こそ、戻る理由が一つ増えた。 会議室へ戻ると、警察官が再生機の時刻を合わせていた。蓮は資料へ目を落とし、彩花さんは音声の波形を確認している。さっきの会話を聞いていないふりが、かえって分かりやすかった。 征臣が隣の椅子を引く。「『あとで』が長いですね」 私が小声で言うと、彼は時計を見た。「五分だ」「そういう意味ではありません」「五分が長い
保冷室の扉が開くと、紗英は廊下へ出たところで座り込んだ。 医師が腕の擦り傷を確認する。端末には父親からの着信が続き、画面が点くたび、彼女は拒否を押した。 私は少し離れた壁際で、三一一のテープを抱えていた。 征臣が隣へ来る。「何を言われた」 聞こえていたはずだった。確かめたいのは内容ではなく、私がどう答えたかだと分かる。「あなたを外してほしいと」「断った」 私は窓へ視線を逃がしかけて、戻した。「はい」「なぜ」 すぐには答えられなかった。 事件のため。証拠のため。どれも間違いではないのに、一番言いたくない部分だけが残る。 窓の外は暗く、ガラスへ廊下の照明が映っている。「……私が言うことじゃないと思って」 征臣は返事をしない。 それだけでは足りないと分かっている顔だった。「それと」 テープの角を握り直す。「本当に離れられるのは、嫌でした」 言い終わる前に声が小さくなった。 征臣の手がテープの下へ入る。落とさないよう支えただけで、私の手には触れない。「俺も、離れる気はない」 目を合わせないまま言うので、告白の続きには聞こえなかった。それでも、胸の奥で詰まっていたものが少しほどける。 紗英がこちらを見ていた。 傷ついた顔を隠していない。その視線へ、うまい言葉を返そうとしてやめた。「USBを渡してくれて、ありがとうございます」「感謝されるためにしたんじゃない」「分かりません」 紗英の目が細くなる。「何を考えて渡したのか、私は分かりません。でも、車は止めます」 それ以上、彼女の気持ちを整えて呼ばなかった。 端末へ、父親からメッセージが届く。 〈戻れば、まだ家族として扱う〉 紗英は削除せず、画面を伏せた。 医師が離れ、廊下に残ったのは湯気の消えかけた紙コップと、誰も座っていない椅子だった。「戻るんですか」 聞くと、紗英は伏
閉じた扉の方で、蓮が取っ手を引く音がした。私は顔を上げ、征臣の姿を探した。「ここにいる」 肩へ触れた手はすぐ離れた。彩花さんが壁を探り、蓮は扉へ体重をかける。非常灯は点いている。それでも、保冷室の空気はさっきより薄くなったように感じた。 紗英は奥の棚の前でしゃがんでいた。両手に三一一のテープを抱えている。「外から電子制御されています」 端末の画面を見て、唇を噛んだ。「権限を切られました」 換気は動いている。すぐ危険になる部屋ではない。それでも、閉じられた扉を全員が何度も見た。 紗英が立ち上がり、テープを胸元へ寄せた。「お願いがあります」 声は私へ向けられていた。「征臣さんを、この件から外してください」 非常灯の下で、顔色が白い。「父は取引を切るだけでは済ませません。事故に見せることもする」「それを知っていたんですか」「可能性は」「いつから」 紗英は答えず、テープを差し出した。「これを渡します。だから」 手を伸ばさなかった。「母の記録と、征臣さんを交換しないでください」「白鳥さんが離れれば、彼も止まります」「止まりません」 征臣の声が横から落ちた。 紗英は彼を見ない。「あなたは、自分が正しいと思えば何をしても止まらなかった」「だから私に頼むんですか」「あなたの言うことなら、今は聞くでしょう」 胸の奥に、場違いな痛みが走った。彼女が征臣をよく知っていることへの嫉妬なのか、私を操作に使おうとしていることへの怒りなのか、すぐには分からない。「私が離れたら、車のことは黙るんですか」 紗英の指がテープのケースへ食い込む。「そういう意味じゃない」「では、何を知っていますか」 扉の外で金属を打つ音が始まった。粉塵が天井から落ち、非常灯の前を横切る。 長い沈黙のあと、紗英が車両番号を口にした。 榊原系列のリース会社が所有する一台。高城運送の事故に使われた整備工場と
B3の扉は、燃えたトラックの奥にあった。 警察は紗英から証拠隠滅が進行しているとの申告を受け、緊急性を確認した。財団側の法務担当者と施設責任者も立ち会う。 研究部門の事務統括として、紗英の職員証には地下書庫の管理権限が残っていた。 読み取り機へカードをかざし、B3の鍵を差す。 錠前がきしみ、扉が内側へ開いた。 書庫は想像より狭かった。棚が天井まで並び、青いファイルと灰色の箱が番号順に収められている。空調の冷気に、紙と薬品の匂いが混じっていた。 十一番棚、四十七番。 母のメモを照らし合わせて進む。 そこだけ箱がない。 棚には四角い埃の跡が残り、手前の金具だけが新しく光っている。 四十六番には患者同意書。四十八番には薬剤副反応報告。間の四十七番が、二つをつなぐ記録だった可能性が高い。 紗英が下段へ膝をつき、棚の奥へ手を入れた。「父は箱を処分する時、中身だけ抜きます。ラベルは別の箱へ移す」「手伝っていたんですね」 指が止まる。「はい」 謝罪はなかった。ここで言葉へされても、棚の空白は埋まらない。 壁際の裁断機には、受け皿へ細い紙片が残っていた。彩花さんは触れずにライトで位置を示し、鑑識担当が受け皿ごと封じる。 母の名前が残っていないか、確認してもらうことになった。 その時、書庫の奥から機械音がした。 棚の一部がゆっくり横へ動き、冷たい空気が流れ出す。 隠し扉の先は、小さな保冷室だった。薬剤ではなく、古い映像テープがケースごと並んでいる。 一番手前に、〈三一一〉。 紗英が手を伸ばすより早く、照明が消えた。 外側で扉が閉まる。 非常灯が点いた。征臣の手が私の袖を掴む。薄明かりの中で目が合い、彼は私がそばにいるのを確かめるように、一度だけ頷いた。「人数」 蓮の声に、全員が短く応じる。 彩花さんは小型ライトを点け、棚番号と閉じた扉を撮影した。閉じ込められても、記録を止めない。「内側から開けられないんですか」「非常解除は







